LIFE(生と命・愛について) way of life

【障害者】少年は重い槍が刺さった運命に、ギターを手にして逆らった:岸辺にひとり

幼児3歳~

幼稚園には行かなかった。なぜかすごく嫌だった。

強制、決り事、自由を奪われ、交わりたくない他者、それとお母さんといたかった

おそらくは単に人と馴染むことができない一種の病気で

ヒューマンスキルが欠落していたのだと思う。

「小学校はいくらか勘弁して」みたいなことを泣きながら懇願した記憶がある。

無事に引籠る生活に戻り⇒自由を謳歌⇒絵をかき⇒雲と話し⇒本を読み⇒花に水をやり⇒虫さんを探し⇒土遊びをする

ずっと対象物に話しかけていた 寂しくなんかないし 昼寝する暇などなかった

ここにいる彼を今の僕は迎えに行きたい

小学校6歳~12歳

障害のある腕もいつか手術で治ると信じていた。

野球、とりわけ投手に憧れ、左利きの投手になる夢を持っていた。

なんとなくの流れで少年野球というものに入った。

町内で別れたチーム⇒しかしモラルの欠けた時代の集まりは秩序が無い

監督、コーチは街のオッサン、自分の息子や関係者を優遇し

障害のある子への配慮など一片もなく、これなく私は孤立し⇒やめた

野球自体は好きだったのに・・・周りの大人の対応は大事だと今はわかる

 

こんなハッキリとした障害があるのに教師は気が付かなかった。親がどの程度言ってたのかさえ、わからない。

誰かに話す友達もいなかった。

自分自身は自分の障害を隠した⇒ラジオ体操が大嫌いだ⇒蛍光灯も変えてあげられないから悪ぶって逃げた

⇒両出での雑巾がけもできなかった・・・・俺は何もできないと絶望するには十分な日々が盛りだくさんだった。

中学校13歳~15歳

腕は一生治らない、このまま動かないよと宣告された。広尾病院、原医師。

親も田舎の普通の人だし、たぶん幼少からどうしていいのかわからなかったんだと思う。

色々言った。変な整体、インチキ筋肉注射(痛くて泣き叫んだ)・・おそらくどこからか、治るかもよなどとささやかれ、

藁(ワラ)にもすがる思いで駆けずり回ったんだと思う。自分より親が不憫でならない。

やっと東京、港区にある広尾病院という現代的な場所でいろんな検査を経て不治と告げられる結末。

特にいい先生だったわけでもない。言葉も冷たかった。次があるから早く帰ってほしそうだった。

その後、体をほぐすということでリハビリに移るが、そこでギターを弾きたいと思い切って言ってみる。

なぜかまだなんとかでしてくれるのではないかという、子供ながらの期待があったのだと思う。

しかし、リハビリの先生の顔が思いっきり曇る。無理だというようなことを長々と話された。

僕は帰りの広尾駅のトイレで一人、自然と泣いた。

中学2年の時に大勢とケンカして気づくと左手の拳が粉々に砕けて複雑骨折していた。

それまでやっていたボクシングができなくなった。少林寺拳法を始めた。

そう、心が何もあきらめてなかった。強くなりたかった。心が、体が、孤独にもすべて。

 

学校では足の競技ならやれる!と、ここでもまだ何かをあきらめず、サッカー部に入る。

テレビ東京のダイヤモンドサッカーが好きだった。というか、腕の障害があまり影響しないだろう脚の競技、サッカーが自然と好きになった。日本はまだまだ野球がメインだったけど。リヴァプールのイアンラッシュが好きだった。

しかし中学の部活は少年野球以下のクオリティー。指導者がいない、不良グループの巣窟で練習は適当、一年だった僕はなぜかずっと球拾いと声出し。今では考えられないクソみたいな放課後。ずいぶん時間を無駄にした。

不良の馬鹿先輩らがいなくなるまで一時やめて、やり過ごすが、それが気に入らなかったのかエライいじめにもあった。

そういう世界でサッカー部に限らず教師、友人、すべての学校生活、

学校での人的関係はひたすら不条理と低クオリティーを味わいながら過ぎてゆく。

 

そしていよいよ音楽に近づいてくる。自分が強さを求める気持ちは日に日に増すしていた。

中学3年のときの地元の市民会館でNHKの公開録音が開催され、午前の部、午後の部とわかれて行われた。

午前には地元バンドと柏原芳恵さんが出て、チケットも無料ということで立ち見ありの満員状態。

地元バンドは私の兄のバンドで「ELVIS]という、今思うとどうしようもないバンドだった。

午後は、よく知らないバンドがでるということで。

ただ、兄が関係者から聞いたところによれば「将来武道館でやるバンド」ということで、

わけもわからず凄いという印象を受け、観てみようと思い、午後まで会場に残った。

昼休憩後に会場に戻ると、一気に人がいなくなっていて、前列にやんちゃなお兄ちゃんたちが2列くらいしかいない。

なにこれ?と思いつつも、どうやらバンドのライブは定刻で始まるらしい。

NHKの番組なので、詳細に語られるバンド。聞いたことない単語、

ARB

バンドの演奏自体聞いたことない。今までみたのは松田聖子、松任谷由美、ピンクレディー、柏原芳恵など、音が優しいものばかり。

それが、キースのドラムで始まるユニオンロッカー、イカれちまったぜ、BOYS&GIRLS、ダディーズシューズ・・客がいないのに全力で歌う石橋凌さんを至近距離でみる。とてつもなく上手すぎる演奏、音におののく。田中一郎さんが天才に見える。

自分の兄がやるバンドがせいぜいだったので、バンドって、こんな凄いのかとまさにイカれてしまった。

兄とは3歳違いなので、自分が中学に上がる時に彼は高校に上がり、先のバンドをやっていたようだが、ギターを買うという事で御茶ノ水まで付き合った。まだそのころは従順であたっため「すげえな、ギター買うのか、いいなあ」と羨望し、いろいろ話を聞くと、イギリスのCLASHというバンドが格好いいらしく、そこのボーカルと同じギターが欲しいらしい。そう、ジョーストラマーの愛用するFenderのテレキャスター68年モデル。

よくわからないが、当時はびっくりしたのだが、楽器屋で兄が買ったテレキャスターは当時で50万ほどした。相場観も何もないので、少年の私はやっぱすげえ高価なんだなと思い、買った兄に羨望を向けるほかなかった。しかし兄がそれを弾いてるところを見たことが無い。いたずらに触ってみるけど、自分の障害、動かない、手のひらも上に向かない手じゃ無理だなと、寂しく持っては置いて、持っては置くを繰り返してた。ちょっと切ない。

高校16歳~18歳

私が高校にいくと三つ上の兄は大学にいくわけだが、これもなぜか彼はアメリカの大学へ行った。彼の部屋に残ったものを父親と整理する。ぽつんとギターが置いてあった。広尾病院で不可能だと言われたことを思い出す。得体のしれない怒り、憎しみ、絶望、尖った期待、そんなものを抱きながら触っては置くを繰り返す。

ARBにやられて以来、音楽がを探してでも聞こうという姿勢になった時に、親戚のある渋谷区笹塚に貸しレコード屋ができたという。一枚のLPレコードを買う値段で5枚くらい聴ける!これはということで休みには笹塚へ向かって、空気録音でカセットに録音して持って帰るということを始める。情報はカウントダウンUSAが主だった。TOP10はかったっぱしから聞いた。

もちろんARBも借りた。そこで店の人がARB好きならこれもいいよと紹介してくれた。

THE MODS [LOOK UP]

レコードの音源での衝撃だった。そのあとすぐにマクセルのCM、真ん中のVOが巨人に見えた。MODSだった。すぐにHANDS UPというアルバムが発売され、VHSのビデオと共に即買いする。

なんて格好いいんだ。先にCLASHも聞いてはいたが、森山さんの方が格好良く見えた。

もう一度ギターを手にする。なぜか家にあったFight or FlightのTAB譜。

これを弾きたいと思った。TWO PUNKS。イントロ、D⇒G⇒A。ローポジションで。

できた! 障害者の少年の声なき歓喜。 有り余る渇望が降り注ぐ。

不可能じゃなかった。弾けた。何かが、はじけ飛んだ。何度も何度も弾く。Bmも弾く。

手の平が上に返らなくても、握るように、森山さんみたいに手にすればできるかもしれない。

錯覚・勘違いでもいい。とにかく弾きたい。

学校も休みがちになりながら、ギターを弾く。カヴァーする。繰り返す。

そして、自分で作ることに目覚める衝撃に出会う 自分の歌を歌えと

尾崎豊

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